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VOL.2-1 自由

1981年暮れ。

長年お世話になったナガヌマサーフボードを辞めた。
大きなファクトリーの流れの中でのシェイプは時に自分を見失いそうにもなり、色々思う所があっての決心だった。

 明けた1982年に「STARVING surfboard」を立ち上げて独立をした。自由にデザインができることやシーズン毎にモデルを出したり、色々やりたい事を考えていると自然と気持ちが高ぶりやる気がでた。しかし月日も経過して数ヶ月すると熱い想いも喜びも、現実と対峙するとそれはかなり辛かった。独立前から自分のシェイプに付いてくれていた人達はオーダーしてくれたものの、そのほかではなかなか増えてゆかない。口コミだけではやはり限界があった。もちろん雑誌に広告を打てるような資金があるわけではなかった。メジャーなファクトリーから離れれば必ず起こる問題なのはわかってはいたがブランドを運営してゆくにはかなり厳しかった。ただ、そんな中でもオーダーしてくれるサーファーと会って直接コミュニケーションをとるスタイルは大切にしたかったから出来る限りそこは貫いていた。
今思い返しても、STARVINGはアンダーグラウンド感溢れるバリバリのローカルブランドであったと思う。

*****

自由と金欠が続いた82年も終わりに近づいた12月。ノースショアの季節。シーズンに入ったノースはサーフィンのあらゆる事が集約される聖地だ。この年もノースへ行くためシェイプ以外にも寝る間を惜しんでバイトをして金を貯めた。この年はほんとうに這いずる思いでオアフに行った記憶がある。そんな余裕の無さに加えて、ボードのテストやニューモデル開発、さらに自分のノースアタック。やらねばならない事は山積していた。しかもたった一人。さすがにこの時は『今やらねぇと後はない』という悲壮感を全身に漂わせていたと思う。

そんなつらい日々が続いていたある日、やはり日本から来ていたM先輩とばったり会う。この時は互いの近況や連絡先などを話して別れたのだが、その数日後にその先輩から突然電話が入る。

  「忠男、今からこっちへ来れるか?」 

何ですかなんて聞く隙もなく、まぁいいから早く来い、説明はあとでするから、というばかりだった。取りあえず場所だけ聞いて急いで支度をして出向くと、着くなり先輩は

  「これからディック・ブルーワーのところへ行く。お前も一緒に来いよ」

実はこの先輩は日本に初めてブルーワーのボード持ち込んだ人だ。本人との親交も深く、日本人とディック・ブルーワーの関係はこの人抜きには語れない。
17歳の少年だった1972年にオアフでブルーワーにシェイプしてもらった時もこの先輩が仲介をしてくれた。あの時のサミーホークモデルこそ自分のサーフィンを変えたボードでありシェイパーへといざなう礎になったボードである。もう10年の時が経つ。


再会が実現したら単なるサーファーではなく、サーファー/シェイパーとして再会できる事になる。先輩の言った言葉が頭の中で木霊のように何度も響き心臓の鼓動も早くなった。ミスターブルーワー、本当に会えるんだろうか?
はたしてあの時の17歳の少年を憶えているだろうか?

‘82-‘83 ウィンター、
R・ブルーワー46歳、おれは27歳だった。

INAMURA Outside 1982

Starving surfboard 5'11"Twin fin

Starving decal 

(一枚づつすべて手書き)

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