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VOL.1-2 道標

ハワイから帰った’73年に長沼さんや先輩達に認めてもらえてナガヌマサーフボードのライダーになることができた。このことでより一層サーフィンに没頭できる環境になっていった。
 前年にブルーワーにシェイプしてもらったボードは、乗る度にいつも最高な体験をさせてくれた。リーフブレイクが多い鎌倉ではボードの性格も丁度よくフィットして、特に稲村のアウトサイド、インサイドのサイズアップした時は波とボードが美しく調和して素晴らしい思いを何度も経験した。

 波乗りを左右するシェイプにも興味は出始めてはいたものの、まだまだ海に入って波乗りする気持ちの方が勝っていた。波が上がれば学校を休んで海へ向かう日々で、先ずは波乗りが一番、他の事は全部二の次になっていた。髪の毛は腰あたりまで伸びて、学校へ行く時も足元はゴムぞうり、それで学ランだから電車ではかなり違和感あって目立っていた少年だったと思う。まだサーファーなんて社会的に認知もなく、ほんとに少なかった頃だから、60年代を引きずったヒッピーかぶれに映っていたはずだ。とにかく、波乗りして、食べて、寝て、起きて、波乗りして、あとは学校の繰り返しで、そんな最高の日々だった。
 そんな感じでサーフィン中心に生活が回っていたから、心の中では学校も中退しちまおうかなぁといつも思っていた。周りの先輩たちからは、「忠男さぁ、高校は卒業しろよ~」と言われ続けた。何とか卒業はできたけれど、今思えば『卒業しろよ』と言う当の本人たち、先輩や仲間がどっぷりとサーフィンに浸かっている環境の中に居て、よく中退せずに耐えたと思う。本当に先輩のお言葉のおかげなのか??。

この頃の稲村はコミューンのようで、自由な空気が漂っていた。アメリカのサブカルチャーを飲み込み、ライフスタイルの中に漂わせていた人達が多かった。その中心的な存在のナガヌマサーフボードには稲村ローカルと鎌倉周辺の人達がいて、皆とても個性的だった。もちろん長沼さん以下正式なスタッフは決まってたのだろうが、いつも様々な人が出入りしていたので誰が正式なスタッフだったのか、もう今でははっきりと思い出せない。そんな中で揉まれた少年青年時代だった。

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高校を卒業した翌年、19歳でカリフォルニアを経験して、その翌1975年、20歳になったこの年に本格的にシェイプを始めることになる。16歳の時に見よう見まねで古いロングボードを剥がしてリシェイプをしたけれど、これは遊びの延長のようなものだった。シェイプへの興味のきっかけはブルーワーシェイプのボードだったが、ナガヌマサーフボード長沼さんの「忠男、シェイプしてみるか?」という言葉が背中を一押ししてくれた。
 この頃、ナガヌマサーフボードの工場は既に鎌倉の寺分にあったが、平屋で飯場のような雰囲気だった。今とは比べるべくも無く粗末な工場だったけれど、長沼さんは自分自身のシェイプルームの隣りに新たにもうひとつ作ってくれた。全部トタンで窓がなかったから夏はとんでもなく暑くてどうしようもなかったが、こうして建ててくれた事がとても嬉しく、自分はサーフィンで食べていくんだという考えが確固たるものとなっていった。
 シェイパーは長沼さんと自分の2人だったが、勿論オーダーはそんなにあるわけでもなく、特に冬場はまるっきり暇だった。そんな時は先輩達と東京に住み込みでアルバイトをして越冬、貧乏をしのいだものだった。

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 その後の数年で湘南は変わり始める。世間でもサーフィンがポツポツ取り上げられるようになり、地元鎌倉の海もだいぶ様変わりしていった。アメリカの西海岸の雰囲気を求めてやってくる人達で華やぐようになり、稲村や七里ヶ浜も人が溢れ始めた。それまで地元のごく一部であった仲間達との小さなコミューンが大きな流行の中に徐々に飲み込まれていった。個人でやっていた事にメディアが入り込み始め、海の中の自由が少しずつ軋み始めていく。

1976年、21歳。
鎌倉峰ヶ原でのプロテストに合格、ついにプロサーファーとなった。

夏の午後

稲村/岸辺 1975年頃

稲村 1975年

千葉へ大会に    1975年

1976年
アメリカ建国200年の年

前年に続いて「2」